Monday, November 10, 2008

San Giovanni in Laterano



11月9日は「ラテラン教会の献堂」の日で、献堂を祝うミサが行われた。
ラテラン教会、つまりSan Giovanni in Laterano(サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ)は、サン・ピエトロ大聖堂、サンタ・マリア・マッジョーレ教会、サン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ教会と並ぶローマの四大聖堂の一つであり、そのスケールもそこはかとない。
ローマ・カトリックの総本山であるバチカンのサン・ピエトロ大聖堂がカテドラル(司教座聖堂)だと思いこんでいたのだが、ローマのカテドラルはサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノなのだそうで、この日はローマ・カトリックの中心である教会=ラテラン教会の献堂を祝った。

昨年9月にローマを訪れた際、ようやく到着したサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノの聖堂に入ったところ、私が正面入り口だと思っていたところが回廊脇の出入り口であることがわかった。
祭壇のすぐ横から聖堂内を一望し、あまりの広さに呆然としたのを覚えている。
回廊両脇には巨大な12使徒像が並び、どれも素晴らしかった。

Saturday, October 18, 2008

Rosary



親しい人へのプレゼントをきっかけにロザリオ作りを再開。

この総シルバー(色だけで材質は違うが)のロザリオもプレゼントなのだが、自分でも気に入ったので同じものをつくることに決めた。
ビーズはフィリグリー(銀線細工)と呼ばれる繊細なもので、センターピース、クロスはともにベネディクト。
女性的な印象を受けるが、果たして男性にプレゼントしてもよいものだろうか・・・

Tuesday, October 7, 2008

バチカンでの聖書朗読マラソン



バチカンにて、10月5日より7日間に亘り聖書朗読マラソンが開催されているのだそうだ。
トップバッターはローマ教皇・ベネディクト16世で、創世記を朗読されたとのこと。イタリアの著名人らがこの朗読に参加したのだというが、国を挙げてこのようなイベントの開催をするイタリアという国がうらやましくなった。


関連記事
http://www.afpbb.com/article/life-culture/religion/2525529/3400764

Saturday, September 27, 2008

Prayer of Mother Teresa



マザー・テレサの映画を撮影した千葉茂樹監督にお目にかかった。
マザー・テレサの映像は世界中でも4本しか残されていないが、そのうちの2本は日本で制作された千葉監督によるものである。
久しぶりにマザーのDVDを見直して、マザーハウスで修道生活を送る友人を思い出した。

Mary, mother of Jesus, give me your heart,
so beautiful, so pure, so immaculate,
so full of love and humility
that I may be able to receive Jesus
in the Bread of Life,
love Him as you loved Him,
serve Him in the distressing disguise of
the Poorest of the Poor.

(イエスの母であるマリアよ、あなたの心をわたしにください。
あなたの心は美しく、清く、汚れなく、
愛と謙遜に満ちています。
わたしもいのちのパンのなかにおられるイエスを
受けとることができますように。
あなたが愛したようにイエスを愛することができますように。
貧しいなかでももっとも貧しい人々の
心痛む姿のなかにおられるイエスに仕えることができますように。)



マザーの指を使った祈り。
一節一節に合わせながら右手の指を一本一本伸ばしていく。
beとholyは、それぞれ指を一本伸ばす。
次に、一語一語に合わせながら左手の指を伸ばしていく。
そして開いた両方の手を合わせて祈りなさいという。
「そうすれば、あなたたちも聖なるものとなれるでしょう」

I will, I want, with God's blessing, be holy.
You did it to me.
(神の祝福を受けて、わたしは聖なるものとなりたいのです。
あなたはそれをわたしにしたのである。)

わたしの兄弟であるもっとも小さな者の一人にしてくれたことはわたしにしてくれたことである。
(マタイ 25:40)



Jesus in my heart. I believe in Your tender love for me. I love You.
(わたしの心の中におられるイエスよ、あなたのやさしい愛を信じます。あなたを愛します。)

Wednesday, September 24, 2008

キリストの香り

ある講演会の告知のために原稿をいただいたたところ、以前から好きで、このブログにも書いた祈りが掲載されていた。
偶然にも今日、再び読むことができて、不思議な気分になった。

イエス様、
私がどこにいても、
あなたのかおりをはなつことができますように、
私を助けてください。


Friday, September 5, 2008

Words of Che Guevara (in Japanese)

もし我々が空想家のようだと言われるならば、
救いがたい理想主義者だと言われるならば、
出来もしないことを考えていると言われるならば、
何千回でも答えよう。
「そのとおりだ」と。


世界のどこかで不正によって苦しんでいる人がいるならば、
それを心から悲しむことができる人間になりなさい。
それが革命家にとって一番美しい素質なのだから


世界のどこかである不正が誰かに対して犯されたならば、
それがどんなものであれ、それを心の底から深く悲しむことの出来る人間になりなさい。


大切なのは行動であって、実行の伴わない言葉には何の意味もない


真の革命家は偉大なる愛によって導かれる。
人間への愛。
正義への愛。
真実への愛
愛のない革命家を想像することは不可能だ。


これからが見えなくなっても、今はここにある。
その今の中にいる自分を大切にしよう。


利己主義を終わらせよ。覇権主義を終焉せしめよ。
冷戦、無責任、そして欺瞞は、もう終わりにしようではありませんか。
我々ははるか以前になすべきであったことを行うには、明日では遅すぎるのあります。


これからは良いことをされたら100倍にして返せ!
その代わり嫌なこととをされたら100分の1にして返せ。


馬鹿に慣れ
とことん馬鹿になれ
恥をかけ
とことん恥をかけ
かいてかいて恥かいて
裸になったら見えてくる
本当の自分が見えてくる
本当の自分も笑ってた
それくらい
馬鹿になれ

あなたにとって私はなんだったのか。
私にとってあなたは全てであったけれど。

Friday, August 29, 2008

舟越桂 夏の邸宅



東京都庭園美術館で開催されている「舟越桂 夏の邸宅」を観に行った。
2003年5月に東京都現代美術館で開催された「舟越桂展」以来、舟越氏の作品をまとまって観るのは実に5年ぶりであった。

会場である東京都庭園美術館はアール・デコ様式の旧朝香邸を美術館にしたもので、まさに「邸宅」で開催された展覧会である。季節が夏であるだけではなく、舟越氏の作品にただよう静謐でさわやかな雰囲気はまさにすがすがしい夏の心地よさを感じさせるもので、慢性的なヒートアイランド=東京において、まるで避暑地にでも訪れたような、涼やかな「夏の邸宅」を楽しませてくれる気持ちのよい展覧会であった。

庭園美術館と聞いただけで、氏の作品がよく合うであろうと想像していたが、会場内は想像を越えた美しい空間で、作品と会場の調和は実に素晴らしいものであった。
四角い「美術館」での展示とは異なり、庭園美術館のもつ有機的な空間が最大限に生かされ、美術館全体が美しいインスタレーションであると呼ぶこともできる。会場にはほのかに樟の香りが漂い、学生時代の懐かしいアトリエを思い出した。



人物をモチーフにした具象彫刻というと近代の塑像などを想像しがちであるが、現代において、徹底的な具象表現を見事なまでに成功させた氏は、かの舟越保武氏の次男である。
熱心なカトリック信徒としても知られる父・保武氏の作品は、最近では11月に列福式を控えている「ペトロ岐部と187殉教者」のパンフレットで、ペトロ岐部の彫刻を目にした。
晩年の保武氏は病気のために右半身が麻痺していたが、そのような状態でも、左手をつかって彫刻をつくり続けていた。不自由な手でつくられたイエス・キリストの頭部は、保武氏の特徴である優美で甘い雰囲気はなく、荒々しい表現ではあったが、それでもなお彫刻をつくろうという氏の思いや、イエスをつくろうとした気持ちの強さが感じられ、保武氏の篤い信仰心に心を打たれた。

このような父を持つ息子・桂氏は、二代目と言うと聞こえは悪いのかもしれないが、やはり父親あってこその作家なのではないかと思う。これはもちろん悪い意味ではなく、氏自身がベネチア・ビエンナーレやドクメンタなどの国際的美術展にも出展していることからも、一作家として世界に認められていることは読み取れると思う。
父親譲りの描写力に加え、氏自身の独自の表現(樟に彩色、大理石の玉眼という、仏像に見られる日本の伝統的な技法)をもって、現代彫刻の第一線で活躍する作家として躍り出た舟越桂氏は、今なお前進し続けている。



間の表現を追求する桂氏に対して、美術的な観点で論じられたものは豊富にあるのだが、桂氏のバックグラウンドにある宗教性についても聞いてみたいと思う。
木彫ではじめて制作された作品は「聖母マリア像」(1977年/函館・厳律シトー会 灯台の聖母大修道院)、次いで「聖母子像」(1979年/カトリック逗子教会)がつくられたが、いずれもカトリック団体に収められていることに、見えない何かを感じるし、大きな意味があるのではないだろうか。

魅力的なモデルを用いることでも知られる舟越氏は、著名人から無名の一般の人までを作品のモチーフとしているが、つくりだされた作品には有名・無名の序列はない。あくまでも一人の人間として捉え、さらに新しい意味合いをこめてつくられた作品は神々しく、まさにイエス・キリストが私たちに示した「愛」や「人間一人ひとりの偉大さ」を感じることができたように思う。

展覧会場に到着したとき、氏自身がカトリック教徒であることをすっかり忘れていたが、まるで聖堂に入ったときのようなすがすがしさや、思わず手を合わせたくなるような感情が「信仰」に似ていることから、ふと、「そういえば桂さんはカトリック信徒だったのだ」と思い出した。


ここ数年は両性具有のスフィンクス・シリーズがつくられているが、ここにも人間の多面性・多様性を垣間見ることができる。
多方面に取材した桂氏の作品はますます魅力的であり、また多くの人たちにメッセージを伝えるものであるが、氏にとっての祈りのかたちがスフィンクスとなって現れたように感じられる。



氏の作品にはいつも励まされ、また彫刻制作を再開したいという気持ちにさせられる。
舟越桂氏とは何度かお目にかかったことがあるが、会う度にあいさつをするタイミングを逸しており、いつかお話をしたいと思っている。

はじめてお会いしたのは私が大学生1年か2年の時、知人の誘いで桂氏のアトリエを訪問した時だった。
アトリエを引っ越されたと聞いているが、私が訪ねた頃は父・保武氏もご存命で、保武氏のご自宅の横にある、わずか6畳ほどの狭い離れだった。当時、もっと広いアトリエを探しているというお話をうかがった。
まるで小さなお城のようなそのアトリエに入ると、ところ狭しとデッサンやら写真やらメモやら、過去に制作された作品(その当時でもまだ手を加えていたというお話だったように記憶している)が置かれ、中央に作業台が置かれ、制作途中の頭部がゴロンとしていた。
ここからあんな作品が生まれるのだと、不思議な気持ちになったのをよく覚えている。

確かこれが二度目だったと思うが、学生時代のアルバイト先でお見かけした。
そしてその次にお会いしたのは、大学の「彫刻論」とかそんなような名前の講義の場に、ゲスト講師として来てくださった時だったと思う。
講義と言っても、聴講者は同じ学年の21名+先輩や助手陣で、言わば彫刻家の卵が先輩である彫刻家から話を聞く、というものだった。指導を受けていた先生が桂氏の友人にしてライバルの彫刻家であることから実現した企画だったように思う。

最後にお会いしたのは、2003年5月に東京都現代美術館で開催された「舟越桂展」の会場だった。この時は閉館間際にフラッと会場に来られた桂氏を見かけ、サインをしてもらい、少しの間お話をしたような気がする。

いずれの場合も個人的なことは何も話さず、今思い返すとアトリエにお邪魔したお礼や、彫刻論の講義のお礼を申し上げるのが筋なのだが、なんとなく遠慮して黙っていた。次回お話しする折りには、きちんとごあいさつしてお礼を伝えたいと思っている。