ある講演会の告知のために原稿をいただいたたところ、以前から好きで、このブログにも書いた祈りが掲載されていた。
偶然にも今日、再び読むことができて、不思議な気分になった。
イエス様、
私がどこにいても、
あなたのかおりをはなつことができますように、
私を助けてください。
Wednesday, September 24, 2008
Friday, September 5, 2008
Words of Che Guevara (in Japanese)
もし我々が空想家のようだと言われるならば、
救いがたい理想主義者だと言われるならば、
出来もしないことを考えていると言われるならば、
何千回でも答えよう。
「そのとおりだ」と。
世界のどこかで不正によって苦しんでいる人がいるならば、
それを心から悲しむことができる人間になりなさい。
それが革命家にとって一番美しい素質なのだから
世界のどこかである不正が誰かに対して犯されたならば、
それがどんなものであれ、それを心の底から深く悲しむことの出来る人間になりなさい。
大切なのは行動であって、実行の伴わない言葉には何の意味もない
真の革命家は偉大なる愛によって導かれる。
人間への愛。
正義への愛。
真実への愛
愛のない革命家を想像することは不可能だ。
これからが見えなくなっても、今はここにある。
その今の中にいる自分を大切にしよう。
利己主義を終わらせよ。覇権主義を終焉せしめよ。
冷戦、無責任、そして欺瞞は、もう終わりにしようではありませんか。
我々ははるか以前になすべきであったことを行うには、明日では遅すぎるのあります。
これからは良いことをされたら100倍にして返せ!
その代わり嫌なこととをされたら100分の1にして返せ。
馬鹿に慣れ
とことん馬鹿になれ
恥をかけ
とことん恥をかけ
かいてかいて恥かいて
裸になったら見えてくる
本当の自分が見えてくる
本当の自分も笑ってた
それくらい
馬鹿になれ
あなたにとって私はなんだったのか。
私にとってあなたは全てであったけれど。
救いがたい理想主義者だと言われるならば、
出来もしないことを考えていると言われるならば、
何千回でも答えよう。
「そのとおりだ」と。
世界のどこかで不正によって苦しんでいる人がいるならば、
それを心から悲しむことができる人間になりなさい。
それが革命家にとって一番美しい素質なのだから
世界のどこかである不正が誰かに対して犯されたならば、
それがどんなものであれ、それを心の底から深く悲しむことの出来る人間になりなさい。
大切なのは行動であって、実行の伴わない言葉には何の意味もない
真の革命家は偉大なる愛によって導かれる。
人間への愛。
正義への愛。
真実への愛
愛のない革命家を想像することは不可能だ。
これからが見えなくなっても、今はここにある。
その今の中にいる自分を大切にしよう。
利己主義を終わらせよ。覇権主義を終焉せしめよ。
冷戦、無責任、そして欺瞞は、もう終わりにしようではありませんか。
我々ははるか以前になすべきであったことを行うには、明日では遅すぎるのあります。
これからは良いことをされたら100倍にして返せ!
その代わり嫌なこととをされたら100分の1にして返せ。
馬鹿に慣れ
とことん馬鹿になれ
恥をかけ
とことん恥をかけ
かいてかいて恥かいて
裸になったら見えてくる
本当の自分が見えてくる
本当の自分も笑ってた
それくらい
馬鹿になれ
あなたにとって私はなんだったのか。
私にとってあなたは全てであったけれど。
Friday, August 29, 2008
舟越桂 夏の邸宅

東京都庭園美術館で開催されている「舟越桂 夏の邸宅」を観に行った。
2003年5月に東京都現代美術館で開催された「舟越桂展」以来、舟越氏の作品をまとまって観るのは実に5年ぶりであった。
会場である東京都庭園美術館はアール・デコ様式の旧朝香邸を美術館にしたもので、まさに「邸宅」で開催された展覧会である。季節が夏であるだけではなく、舟越氏の作品にただよう静謐でさわやかな雰囲気はまさにすがすがしい夏の心地よさを感じさせるもので、慢性的なヒートアイランド=東京において、まるで避暑地にでも訪れたような、涼やかな「夏の邸宅」を楽しませてくれる気持ちのよい展覧会であった。
庭園美術館と聞いただけで、氏の作品がよく合うであろうと想像していたが、会場内は想像を越えた美しい空間で、作品と会場の調和は実に素晴らしいものであった。
四角い「美術館」での展示とは異なり、庭園美術館のもつ有機的な空間が最大限に生かされ、美術館全体が美しいインスタレーションであると呼ぶこともできる。会場にはほのかに樟の香りが漂い、学生時代の懐かしいアトリエを思い出した。

人物をモチーフにした具象彫刻というと近代の塑像などを想像しがちであるが、現代において、徹底的な具象表現を見事なまでに成功させた氏は、かの舟越保武氏の次男である。
熱心なカトリック信徒としても知られる父・保武氏の作品は、最近では11月に列福式を控えている「ペトロ岐部と187殉教者」のパンフレットで、ペトロ岐部の彫刻を目にした。
晩年の保武氏は病気のために右半身が麻痺していたが、そのような状態でも、左手をつかって彫刻をつくり続けていた。不自由な手でつくられたイエス・キリストの頭部は、保武氏の特徴である優美で甘い雰囲気はなく、荒々しい表現ではあったが、それでもなお彫刻をつくろうという氏の思いや、イエスをつくろうとした気持ちの強さが感じられ、保武氏の篤い信仰心に心を打たれた。
このような父を持つ息子・桂氏は、二代目と言うと聞こえは悪いのかもしれないが、やはり父親あってこその作家なのではないかと思う。これはもちろん悪い意味ではなく、氏自身がベネチア・ビエンナーレやドクメンタなどの国際的美術展にも出展していることからも、一作家として世界に認められていることは読み取れると思う。
父親譲りの描写力に加え、氏自身の独自の表現(樟に彩色、大理石の玉眼という、仏像に見られる日本の伝統的な技法)をもって、現代彫刻の第一線で活躍する作家として躍り出た舟越桂氏は、今なお前進し続けている。

間の表現を追求する桂氏に対して、美術的な観点で論じられたものは豊富にあるのだが、桂氏のバックグラウンドにある宗教性についても聞いてみたいと思う。
木彫ではじめて制作された作品は「聖母マリア像」(1977年/函館・厳律シトー会 灯台の聖母大修道院)、次いで「聖母子像」(1979年/カトリック逗子教会)がつくられたが、いずれもカトリック団体に収められていることに、見えない何かを感じるし、大きな意味があるのではないだろうか。
魅力的なモデルを用いることでも知られる舟越氏は、著名人から無名の一般の人までを作品のモチーフとしているが、つくりだされた作品には有名・無名の序列はない。あくまでも一人の人間として捉え、さらに新しい意味合いをこめてつくられた作品は神々しく、まさにイエス・キリストが私たちに示した「愛」や「人間一人ひとりの偉大さ」を感じることができたように思う。
展覧会場に到着したとき、氏自身がカトリック教徒であることをすっかり忘れていたが、まるで聖堂に入ったときのようなすがすがしさや、思わず手を合わせたくなるような感情が「信仰」に似ていることから、ふと、「そういえば桂さんはカトリック信徒だったのだ」と思い出した。
ここ数年は両性具有のスフィンクス・シリーズがつくられているが、ここにも人間の多面性・多様性を垣間見ることができる。
多方面に取材した桂氏の作品はますます魅力的であり、また多くの人たちにメッセージを伝えるものであるが、氏にとっての祈りのかたちがスフィンクスとなって現れたように感じられる。

氏の作品にはいつも励まされ、また彫刻制作を再開したいという気持ちにさせられる。
舟越桂氏とは何度かお目にかかったことがあるが、会う度にあいさつをするタイミングを逸しており、いつかお話をしたいと思っている。
はじめてお会いしたのは私が大学生1年か2年の時、知人の誘いで桂氏のアトリエを訪問した時だった。
アトリエを引っ越されたと聞いているが、私が訪ねた頃は父・保武氏もご存命で、保武氏のご自宅の横にある、わずか6畳ほどの狭い離れだった。当時、もっと広いアトリエを探しているというお話をうかがった。
まるで小さなお城のようなそのアトリエに入ると、ところ狭しとデッサンやら写真やらメモやら、過去に制作された作品(その当時でもまだ手を加えていたというお話だったように記憶している)が置かれ、中央に作業台が置かれ、制作途中の頭部がゴロンとしていた。
ここからあんな作品が生まれるのだと、不思議な気持ちになったのをよく覚えている。
確かこれが二度目だったと思うが、学生時代のアルバイト先でお見かけした。
そしてその次にお会いしたのは、大学の「彫刻論」とかそんなような名前の講義の場に、ゲスト講師として来てくださった時だったと思う。
講義と言っても、聴講者は同じ学年の21名+先輩や助手陣で、言わば彫刻家の卵が先輩である彫刻家から話を聞く、というものだった。指導を受けていた先生が桂氏の友人にしてライバルの彫刻家であることから実現した企画だったように思う。
最後にお会いしたのは、2003年5月に東京都現代美術館で開催された「舟越桂展」の会場だった。この時は閉館間際にフラッと会場に来られた桂氏を見かけ、サインをしてもらい、少しの間お話をしたような気がする。
いずれの場合も個人的なことは何も話さず、今思い返すとアトリエにお邪魔したお礼や、彫刻論の講義のお礼を申し上げるのが筋なのだが、なんとなく遠慮して黙っていた。次回お話しする折りには、きちんとごあいさつしてお礼を伝えたいと思っている。
Saturday, July 26, 2008
Blessed Giovanni Mazucconi of PIME

『南海の殉教者 〜ウッドラークのマズッコーニ〜』という書籍をもらった。
タイトルの通りの内容で、1855年9月に僅か29歳という若さで殉教したヨハネ(ジョバンニ)・マズッコーニ神父の半生が記されているこの本は、私にとって大切な一冊となった。
もう20年以上前に出版された古びた本を差し出された際に、「重い(内容の)本だから無理しないで」と言われたが、この本を与えてくれた宣教師が所属する宣教会の、最初の殉教者にして1984年に列福された福者について書かれており、同宣教会誕生までの道程を知ることができた。
以前この宣教会のマニラ管区を訪れた際に、2人の司祭の写真を紹介された。慣れぬ英単語に耳を疑ったが、アメリカ人の司祭は確かに「ここ、マニラで殉教した司祭たち」と言っていた。
当時は「殉教」という言葉がピンと来ずに、宣教の過程で亡くなったという風に捉えていたが、アメリカ人司祭の重々しい口調から、殺害されたのだというニュアンスを汲み取ったように記憶している。
その後、同宣教会の歴史に触れた折に、150年以上もの歴史の中で殉教した宣教師たちが、実に18名にのぼることを知った。中には聖人や、この本に記された福者ヨハネ・マズッコーニ神父も含まれていた。
殉教者の名前、写真、殉教した日時、土地が正確に記されたリストを目にし、その中にマニラで見た写真が紛れていることに気づくと、殉教の重さ、尊さ、信仰の深さ、愛の大きさを感じた。
殉教とは、自らの信仰のために生命を失ったとみなされる死のことである。このように言ってしまえば、信仰のために生命を落とした者が皆、殉教者と呼ばれるかのように思える。事実、私もそのように解釈していたが、「殉教者となるのは種々の責め苦や死がそうさせるのではなく、何の理由で殺されたのかということが決定する」とのことで、カトリック信仰に対する憎しみのために殺害された場合にのみ、「殉教」と呼ばれるのだという。
この事実を知った今、マニラで見た殉教者の写真を目に浮かべ、また宣教会のリストに挙げられた18名を思うと、想像を遙かに超えた信仰の篤さ、神の愛の宣教者たちの真の姿を見たような気がした。
殉教には、宗教的迫害において生命を奪われた場合や、強制された棄教に反して死を選ぶ場合などがあるが、マズッコーニ神父の場合は前者であった。150年以上も前に起きた事実──友好的に見せかけて近寄り、隠し持っていた石おので頭を強打。頭蓋骨が割れ、地に身体が倒れこむまでの間には既に生命を落としていたという事実──が生々しく語られるこの本を通して、神の御心を信じ、どのような苦難であろうと甘んじて受け容れ、信仰のために喜んで死を選ぶ宣教師たちの心を、僅かではあるが理解できたように思う。
この本を与えてくれた宣教師は、以前、私にもわかるようにたとえ話を用いて「日本を去りたくない」気持ちを表現してくれたことがあった。普段はもの静かなその方の、いつになく力強い、感情的な言葉を通して、宣教を諦めるのがどれだけ辛いことなのか、どのような覚悟で日本という地に赴いているのかを改めて実感した。
殉教者のために生命を落とした宣教師たちや、またこの本を与えてくださった方が今後もずっと日本で宣教活動を続けられるよう、心からの祈りを捧げたいと思う。
Tuesday, May 13, 2008
Sunday, May 11, 2008
ACT 2:1-13 -Pentecoste

Japanese
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。


