Monday, November 17, 2008

年をとること

知人の老爺が怪我をしてから、もう半年近くになる。
持病の治療のために辛い思いをなされてきたが、今回の怪我も、持病のために悪化してしまっているのだそうだ。

この老爺とは頻繁にコミュニケーションをとっており、奉仕活動の仲間である。精神的に参ってしまっているために言動もエスカレートしており、周囲の人たちからは煙たがられているのが実際のところだ。本人にも自覚があるようで、考え方や行動が異常になってきていると言っているのだが、周囲にこれほどまで迷惑がられていることには、幸い気づいていないようである。

確かに頑固で融通が利かない面もあるし、以前とは少しずつ変化してきている。困ることもある。
しかし、この老爺をよく知っている私にとっては、老爺の悪い評判を聞くのが非常に辛い。周囲の評判には多くの誤解が含まれていることも私は知っている。
本人は死期を意識しはじめており、寝たきりにならぬよう何とか普通の生活をしたい、共に活動する時間は身体の痛みを忘れることができるし、何よりも励みになると言っている。活動から退くことは、私などでは想像もできないほどの危機的なことであるし、今は生き甲斐であるのだと思う。藁をつかむような心境で、この活動にすがっていたいというのが本音なのである。

奉仕活動から退くことは、老爺にとっては、すなわち死を迎える準備に入るようなものなのである。
いくら迷惑をかけられたとしても、できるだけ老爺に協力し、希望を持ってほしいと思う。
老爺の心境を理解する人は、ごく僅かであると思う。せめて私は、老爺のよき理解者でありたい。

老人の気持ちは、きっとその身にならないと理解できないものであり、私も年をとってからはじめてわかることなのだと思う。そして反省し、後悔するのではないかと思う。
マザー・テレサの祈りを思い出して、少しだけ老爺の気持ちがわかったような、そんな気がした。


年をとること

わたしのよろける足どり ふるえる手を わかってくれる人は さいわい。
人のことばを聞き取るのに 大きな努力が要るわたしの耳に
理解を持ってくれる人は さいわい。
わたしの目は うすくなっていて 行動ものろいということを
わかってくれる心のある人は さいわい。
わたしがコーヒーをこぼしても かわりない、平静な顔をしてくれる人は さいわい。
しばらく立ちどまって、ほほえみながら おしゃべりしてくれる人は さいわい。
「きょうはその話を二度聞きましたよ」と決して言わずに
わたしの言うことを 聞いてくれる人は さいわい。
楽しかった昔を取り戻せるように 助けてくれる人は さいわい。
わたしが独りぼっちでなく 愛されていることを
感じさせてくれる人は さいわい。
わたしには 十字架を担う力がないことを わかってくれる人は さいわい。
わたしの人生の最後の日々を 慰めてくれる人は さいわい。

(マザー・テレサの祈り)

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