Friday, December 31, 2004
Prayers of Mother Teresa
それでも
人々は、理性を失い、非論理的で、自己中心的です。
それでも、彼らを愛しなさい。
もしいいことをすれば、人々は自分勝手だとか何か隠された同機があるはずだと非難します。
それでも、いい行いをしなさい。
もしあなたが成功すれば、不実な友と本当の敵を得てしまうでしょう。
それでも、成功しなさい。
あなたがしたいい行いは、明日には忘れられます。
それでも、いい行いをしなさい。
誠実さと親しみやすさはあなたを容易に傷つけます。
それでも、誠実で親しみやすくありなさい。
あなたが歳月を費やした建物が一晩で壊されてしまうかもしれません。
それでも、建てなさい。
本当に助けが必要な人々ですが、彼らを助けたら彼らに襲われてしまうかもしれません。
それでも、彼らを助けなさい。
持っている一番いいものをあげると、自分はひどい目にあうかもしれません。
それでも、いちばんいいものを分け与えなさい。
(マザー・テレサの祈り──シシュ・バハンの壁に書かれた祈り)
Do It Anyway
People are often unreasonable, irrational, and self-centered.
Forgive them anyway.
If you are kind, people may accuse you of selfish, ulterior motives.
Be kind anyway.
If you are successful, you will win some unfaithful friends and some genuine enemies.
Succeed anyway.
If you are honest and sincere people may deceive you.
Be honest and sincere anyway.
What you spend years creating, others could destroy overnight.
Create anyway.
If you find serenity and happiness, some may be jealous.
Be happy anyway.
The good you do today, will often be forgotten.
Do good anyway.
Give the best you have, and it will never be enough.
Give your best anyway.
In the final analysis, it is between you and God.
It was never between you and them anyway.
(The version found written on the wall in Mother Teresa's home for children in Calcutta)
考える時間を持ちなさい
祈る時間を持ちなさい
笑う時間を持ちなさい
それは力の源
それは地球でもっとも偉大な力
それは魂の音楽
遊ぶ時間を持ちなさい
愛し、愛される時間を持ちなさい
与える時間を持ちなさい
それは永遠につづく若さの秘密
それは神が与えてくれた特権
自分勝手になるには一日は短すぎる
読書する時間を持ちなさい
親しくなるための時間を持ちなさい
働く時間を持ちなさい
それは知識のわき出る泉
それは幸福へつづく道
それは成功の価値
施しをする時間を持ちなさい
それは天国へと導く鍵
イエスよ、私をお救いください
愛されたいという欲望から
ほめられたいという欲望から
名誉を得たいという欲望から
称賛されたいという欲望から
人よりも好かれたいという欲望から
相談されたいという欲望から
よく思われたいという欲望から
人気を得たいという欲望から
屈辱を受けるという恐れから
軽蔑されるという恐れから
非難されるという恐れから
中傷されるという恐れから
忘れ去られるという恐れから
ひどい扱いを受けるという恐れから
嘲笑されるという恐れから
疑われるという恐れから
年をとること
わたしのよろける足どり ふるえる手を わかってくれる人は さいわい。
人のことばを聞き取るのに 大きな努力が要るわたしの耳に
理解を持ってくれる人は さいわい。
わたしの目は うすくなっていて 行動ものろいということを
わかってくれる心のある人は さいわい。
わたしがコーヒーをこぼしても かわりない、平静な顔をしてくれる人は さいわい。
しばらく立ちどまって、ほほえみながら おしゃべりしてくれる人は さいわい。
「きょうはその話を二度聞きましたよ」と決して言わずに
わたしの言うことを 聞いてくれる人は さいわい。
楽しかった昔を取り戻せるように 助けてくれる人は さいわい。
わたしが独りぼっちでなく 愛されていることを
感じさせてくれる人は さいわい。
わたしには 十字架を担う力がないことを わかってくれる人は さいわい。
わたしの人生の最後の日々を 慰めてくれる人は さいわい。
Sunday, August 15, 2004
Tuesday, July 13, 2004
Thursday, May 6, 2004
The Passion of The Christ
かねてより話題になっている映画「パッション」(原題:The Passion of The Christ)が公開された。
映画を観て、あんなに号泣したことはこれまでになかった。
観ている方が痛いぐらいの映画だが、その痛み以上にイエス・キリストが人々を、いま生きる私たちを愛してくれていることの証しであるように感じられた。
非カトリック国の日本では話題作として、復活節(復活祭から7週目の「聖霊降臨の主日」まで)にあたるゴールデンウィークに公開されたのだろうが、できれば欧米のように四旬節(「灰の水曜日」から復活祭前までの日曜日を除く40日間)に観たい映画である。
瞬く間に全米で1位に躍り出たという映画「パッション」は、熱心なカトリック教徒であるメル・ギブソンが30億円もの私財を投入して制作した、「信仰告白」とも呼べる映画である。
イエス・キリストの最後の12時間──ゲッセマネでの捕らわれから十字架上で生命を落とすまで──が正確に、克明に描かれており、イエスの復活の場面で終幕となる。
映画の中で話される言語も、ラテン語およびイエスが実際に話していたというアラム語までをも用いるという徹底ぶり。言語へのこだわりからも、監督自身の熱い思いや、「事実の再現の重要性」が感じられた。
各国語の聖書でも翻訳されることなく記されている“イエスの最後の言葉”にして旧約聖書詩編の部分「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(神よ、なぜ私をお見捨てになったのですか)」を耳で聞くことができるのは、キリスト者にとって大きな意味があるように思う。
(この箇所だけでは神への絶望が予感されるだろうが、この詩は神への讃美の言葉へと続くものである。当時は冒頭箇所だけでも詩編の本質的な意味合いは人々に理解されていたため、十字架上で死を迎えるイエスの意図は周知されたと考えられる)
題材がイエス・キリストの受難であるだけに、カトリックでないキリスト教派やユダヤ教からの視点での批判もあったが、イエスを預言者として認めるが神とは認めないというイスラム諸国でも好意的に捉えられ、上映されたのだそうだ。
あまりの凄惨さに否定的な声も挙がっており、一部の出典(聖書に書かれていない部分の補完)に懐疑的な意見もあるが、脚色することなく聖書の行間を示すという点では右に出るものはないように思う。
ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は試写を視聴し、「It is as it was(全て真実)」とのコメントがあったと発表された。この発表は直ちに打ち消されたのだが、後日、教皇の秘書は、「確かに教皇はそう言われた。しかし単なる個人的な感想をメディアがおおげさに取り上げ、その結果映画の宣伝に誇大に使われるような恐れがあっては困るので否定した」と明らかにした。
バチカンの公式な見解でないにせよ、教皇はこの映画に頷かれたのであろう。
公開後アメリカでは、映像化されたイエス・キリストの受難の壮絶さにショック死した女性がいたと報じられた。
確かに長い時間に亘って残酷なシーンが続き、目を覆いたくなる部分もあるのだが、イエス・キリストが罪人(=現代における私たち自身をも意味する)を救うために十字架を背負わされたこの受難はしっかりと見届けるべきなのだと感じた。
さて、今日のカトリック教会での使徒信条(信仰宣言)は下記の通りである。
I believe in God, the Father Almighty,
creator of heaven and earth.
I believe in Jesus Christ, His only Son, our Lord.
He was conceived by the power of the Holy Spirit,
born of the Virgin Mary.
He suffered under Pontius Pilate,
was crucified, died, and was buried.
He descended into hell.
On the third day He rose again,
He ascended into heaven,
and is seated at the right hand of God, the Father Almighty.
He will come again to judge the living and the dead.
I believe in the Holy Spirit,
the Holy Catholic Church,
the communion of saints,
the forgiveness of sins,
the resurrection of the body,
and life everlasting. Amen.
天地の創造主、全能の父である神を信じます。
父のひとり子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。
主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、
ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、
十字架につけられて死に、葬られ、陰府(よみ)に下り、
三日目に死者のうちから復活し、
天に昇って、全能の父である神の右の座に着き、
生者(せいしゃ)と死者を裁くために来られます。
聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、
罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じます。アーメン。
この太字部分の僅か数行、聖書でもたった数ページの出来事が、この、映画「パッション」で映像化されているのである。
特にキリスト教徒でない人たちにとっては「残酷すぎる映画」として目に映るかもしれないが、キリスト教信者が信じるイエス・キリストが、非キリスト教徒を含めた全ての人たち自身のためにこの試練を甘んじて受けた事実を知ることができるのだと思う。
誰もが目を背けたくなるシーンが多いと思う。しかし、このように鞭打たれ、十字架を背負わされた歴史上の事実──イエスに受難をし向けた事実──をしっかりと見届けることに意味があるのではないだろうか。
イエスに注目するという見方だけではなく、“イエスに十字架を背負わせた側”という視点で見ることで、イエスが憐れんでいるもの、罪を償おうとした対象への思い=キリスト教で言われる“愛”が何であるのかが見えてくるのではないだろうかと思う。
この映画は賛否両論が分かれる映画のように思えるが、メル・ギブソン監督自身の言葉の通りに受け入れられるのを望んでいる。
「私の望みは、ユダヤ人を非難することではなく、キリストが我々の罪を償うために味わった恐ろしい苦難を目にし、理解することで、人の心の深いところに影響をあたえ、希望、愛、赦しのメッセージが届けられることだ」
劇中、新約聖書の様々な場面が描かれているが、福音書を読んだことのない人たちには理解しづらい箇所があると思う。また、キリスト教への理解なくしてはイエスの死は不可解なものであり、意味不明な部分も多いと思う。イエスの受難はキリスト教徒だけに意味があるのではないか、と受け取る人もあるように思うが、キリスト教の信仰が、信仰の有無を問わず、世界の全ての人たちに目を向けていることが感じられるのではないかと思う。
イエスに対する抵抗勢力がどのような形で現れてきたのか、その中でイエスが身をもって証ししたことは何であったのか、そして十字架上での死から3日目に復活した事実──キリスト教は、イエスの受難だけではあり得なかったこと、復活があってこそイエスの死が意味を持ち、今日まで人々に受け継がれてきた宗教となったという事実──を知るために、ぜひとも新約聖書を紐解き、イエスの死と復活の意味を確認してもらいたい。
この映画は、「最後の晩餐」が行われた夜、ゲッセマネで祈りを捧げるシーンから、翌日の十字架上の死、そして復活までが描かれており、誰にでも結末がわかりきったストーリーである。
カトリック教会では、イエスがエルサレムに入城した日(枝の主日)からイースター(復活祭:春分の日の後の最初の満月の次の日曜日)までの一週間を「聖週間」と呼んでいるが、映画で描かれている事実は、この典礼上の聖木曜日(最後の晩餐、ゲッセマネでの祈り)から翌聖金曜日(イエスが十字架上で死を遂げた日)までに当たる。
この期間にイエスの受難を思い起こすことで、3日目の「主の復活」を心より祝うことができるのではないだろうか(映画では復活後が描かれていないため、イエス・キリストの復活の意味を理解するのは難しいのかもしれないが)。
事実の映像化という観点では、例えば劇中のイエスは十字型に組まれた十字架を背負って歩く姿が描かれているが、イエスが背負った十字架は十字の横に渡る部分のみで、磔にされるときに初めて十字型に組まれたというのが定説であり、厳密に言えば事実でない部分も含まれる(イエスと共に磔刑に処せられた罪人は、劇中でも横木だけを担いでいる)。
このことを捉えて揶揄する声も聞かれるが、この辺りは「映画」としての視覚的効果や、十字架を背負わされた重い意味合いとして汲めばよいのではないか(批判するのはナンセンス)と個人的には思っている。
誘惑の象徴として描かれるサタンの存在、また裏切り者として知られるイスカリオテのユダの幻影には、バロック美術の巨匠カラヴァッジョの絵画を想起させられ、映像として十分な視覚的効果であるように感じる。
首を吊って罪を報いるユダの映像も、ユダの心情とは裏腹に悲しいぐらいに美しい草原が舞台とされているが、ここにも視覚的なメッセージが込められているように感じられた。
なお、これまでにもイエス・キリストやその周囲の人たちを主題とした数々の映画があるが、個人的にはこのイエス(ジム・カヴィーゼル)や母マリア(マヤ・モルゲンステルン)は圧巻であったと思う。
Saturday, May 1, 2004
Saturday, April 10, 2004
MAT 5:3-10 -The Sermon on the Mount
《Sermon on the Mount》(1481-1482)
Cosimo Rosseli/Cappela Sistina, Vatican
NKJV
Blessed are the poor in spirit,For theirs is the kingdom of heaven.
Blessed are those who mourn,For they shall be comforted.
Blessed are the meek,For they shall inherit the earth.
Blessed are those who hunger and thirst for righteousness,For they shall be filled.
Blessed are the merciful,For they shall obtain mercy.
Blessed are the pure in heart,For they shall see God.
Blessed are the peacemakers,For they shall be called sons of God.
Blessed are those who are persecuted for righteousness' sake,For theirs is the kingdom of heaven.
TEV
Happy are those who know they are spiritually poor;
the Kingdom of heaven belongs to them!
Happy are those who mourn;
God will comfort them!
Happy are those who are humble;
they will receive what God has promised!
Happy are those whose greatest desire is to do what God requires;
God will satisfy them fully!
Happy are those who are merciful to others;
God will be merciful to them!
Happy are the pure in heart;
they will see God!
Happy are those who work for peace;
God will call them his children!
Happy are those who are persecuted because they do what God requires;
the Kingdom of heaven belongs to them!
Japanese
「心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、
その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、
その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、
その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、
その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、
その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
MAT 3:16 -Baptism
Battesimo di Cristo (1570) by Tintoretto
NKJV
When He had been baptized, Jesus came up immediately from the water; and behold, the heavens were opened to Him, and He saw the Spirit of God descending like a dove and alighting upon Him.
TEV
As soon as Jesus was baptized, he came up out of the water. Then heaven was opened to him, and he saw the Spirit of God coming down like a dove and lighting on him.
NKJV
When He had been baptized, Jesus came up immediately from the water; and behold, the heavens were opened to Him, and He saw the Spirit of God descending like a dove and alighting upon Him.
TEV
As soon as Jesus was baptized, he came up out of the water. Then heaven was opened to him, and he saw the Spirit of God coming down like a dove and lighting on him.
Saturday, April 3, 2004
Prayer of Saint Francis of Assisi
Lord, make me an instrument of your peace.
Where there is hatred, let me sow love;
where there is injury,pardon;
where there is doubt, faith;
where there is despair, hope;
where there is darkness, light;
and where there is sadness, joy.
O Divine Master, grant that I may not so much seek
to be consoled as to console;
to be understood as to understand;
to be loved as to love.
For it is in giving that we receive;
it is in pardoning that we are pardoned;
and it is in dying that we are born to eternal life. Amen
《アッシジの聖フランチェスコ─St.Francis of Assisi》Van Dyck
わたしをあなたの平和の道具としてお使いください
憎しみのあるところに愛を
いさかいのあるところにゆるしを
分裂のあるところに一致を 疑惑のあるところに信仰を
誤っているところに真理を 絶望のあるところに希望を
闇に光を 悲しみのあるところに喜びを
もたらすものとしてください
慰められるよりは慰めることを
理解されるよりは理解することを
愛されるよりは愛することを わたしが求めますように
わたしたちは 与えるから受け ゆるすからゆるされ
自分を捨てて死に
永遠のいのちをいただくのですから
(アッシジの聖フランシスコの祈り)
Friday, February 20, 2004
Tuesday, January 13, 2004
MAT 1:23
Songe de saint Joséph, dit aussi Ange apparaissant à saint Joséph
by Georges de La Tour
NKJV
"Behold, the virgin shall be with child, and bear a Son, and they shall call His name Immanuel," which is translated, "God with us."
TEV
"A virgin will become pregnant and have a son, and he will be called Immanuel" (which means, "God is with us").
by Georges de La Tour
NKJV
"Behold, the virgin shall be with child, and bear a Son, and they shall call His name Immanuel," which is translated, "God with us."
TEV
"A virgin will become pregnant and have a son, and he will be called Immanuel" (which means, "God is with us").