Thursday, May 6, 2004

The Passion of The Christ



かねてより話題になっている映画「パッション」(原題:The Passion of The Christ)が公開された。
映画を観て、あんなに号泣したことはこれまでになかった。
観ている方が痛いぐらいの映画だが、その痛み以上にイエス・キリストが人々を、いま生きる私たちを愛してくれていることの証しであるように感じられた。

非カトリック国の日本では話題作として、復活節(復活祭から7週目の「聖霊降臨の主日」まで)にあたるゴールデンウィークに公開されたのだろうが、できれば欧米のように四旬節(「灰の水曜日」から復活祭前までの日曜日を除く40日間)に観たい映画である。


瞬く間に全米で1位に躍り出たという映画「パッション」は、熱心なカトリック教徒であるメル・ギブソンが30億円もの私財を投入して制作した、「信仰告白」とも呼べる映画である。

イエス・キリストの最後の12時間──ゲッセマネでの捕らわれから十字架上で生命を落とすまで──が正確に、克明に描かれており、イエスの復活の場面で終幕となる。
映画の中で話される言語も、ラテン語およびイエスが実際に話していたというアラム語までをも用いるという徹底ぶり。言語へのこだわりからも、監督自身の熱い思いや、「事実の再現の重要性」が感じられた。
各国語の聖書でも翻訳されることなく記されている“イエスの最後の言葉”にして旧約聖書詩編の部分「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(神よ、なぜ私をお見捨てになったのですか)」を耳で聞くことができるのは、キリスト者にとって大きな意味があるように思う。
(この箇所だけでは神への絶望が予感されるだろうが、この詩は神への讃美の言葉へと続くものである。当時は冒頭箇所だけでも詩編の本質的な意味合いは人々に理解されていたため、十字架上で死を迎えるイエスの意図は周知されたと考えられる)


題材がイエス・キリストの受難であるだけに、カトリックでないキリスト教派やユダヤ教からの視点での批判もあったが、イエスを預言者として認めるが神とは認めないというイスラム諸国でも好意的に捉えられ、上映されたのだそうだ。
あまりの凄惨さに否定的な声も挙がっており、一部の出典(聖書に書かれていない部分の補完)に懐疑的な意見もあるが、脚色することなく聖書の行間を示すという点では右に出るものはないように思う。



ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は試写を視聴し、「It is as it was(全て真実)」とのコメントがあったと発表された。この発表は直ちに打ち消されたのだが、後日、教皇の秘書は、「確かに教皇はそう言われた。しかし単なる個人的な感想をメディアがおおげさに取り上げ、その結果映画の宣伝に誇大に使われるような恐れがあっては困るので否定した」と明らかにした。
バチカンの公式な見解でないにせよ、教皇はこの映画に頷かれたのであろう。

公開後アメリカでは、映像化されたイエス・キリストの受難の壮絶さにショック死した女性がいたと報じられた。
確かに長い時間に亘って残酷なシーンが続き、目を覆いたくなる部分もあるのだが、イエス・キリストが罪人(=現代における私たち自身をも意味する)を救うために十字架を背負わされたこの受難はしっかりと見届けるべきなのだと感じた。


さて、今日のカトリック教会での使徒信条(信仰宣言)は下記の通りである。

I believe in God, the Father Almighty,
creator of heaven and earth.
I believe in Jesus Christ, His only Son, our Lord.
He was conceived by the power of the Holy Spirit,
born of the Virgin Mary.
He suffered under Pontius Pilate,
was crucified, died, and was buried.
He descended into hell.
On the third day He rose again,

He ascended into heaven,
and is seated at the right hand of God, the Father Almighty.
He will come again to judge the living and the dead.
I believe in the Holy Spirit,
the Holy Catholic Church,
the communion of saints,
the forgiveness of sins,
the resurrection of the body,
and life everlasting. Amen.


天地の創造主、全能の父である神を信じます。
父のひとり子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。
主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、
ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、
十字架につけられて死に、葬られ、陰府(よみ)に下り、
三日目に死者のうちから復活し、

天に昇って、全能の父である神の右の座に着き、
生者(せいしゃ)と死者を裁くために来られます。
聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、
罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じます。アーメン。



この太字部分の僅か数行、聖書でもたった数ページの出来事が、この、映画「パッション」で映像化されているのである。
特にキリスト教徒でない人たちにとっては「残酷すぎる映画」として目に映るかもしれないが、キリスト教信者が信じるイエス・キリストが、非キリスト教徒を含めた全ての人たち自身のためにこの試練を甘んじて受けた事実を知ることができるのだと思う。
誰もが目を背けたくなるシーンが多いと思う。しかし、このように鞭打たれ、十字架を背負わされた歴史上の事実──イエスに受難をし向けた事実──をしっかりと見届けることに意味があるのではないだろうか。
イエスに注目するという見方だけではなく、“イエスに十字架を背負わせた側”という視点で見ることで、イエスが憐れんでいるもの、罪を償おうとした対象への思い=キリスト教で言われる“愛”が何であるのかが見えてくるのではないだろうかと思う。
この映画は賛否両論が分かれる映画のように思えるが、メル・ギブソン監督自身の言葉の通りに受け入れられるのを望んでいる。

「私の望みは、ユダヤ人を非難することではなく、キリストが我々の罪を償うために味わった恐ろしい苦難を目にし、理解することで、人の心の深いところに影響をあたえ、希望、愛、赦しのメッセージが届けられることだ」

劇中、新約聖書の様々な場面が描かれているが、福音書を読んだことのない人たちには理解しづらい箇所があると思う。また、キリスト教への理解なくしてはイエスの死は不可解なものであり、意味不明な部分も多いと思う。イエスの受難はキリスト教徒だけに意味があるのではないか、と受け取る人もあるように思うが、キリスト教の信仰が、信仰の有無を問わず、世界の全ての人たちに目を向けていることが感じられるのではないかと思う。
イエスに対する抵抗勢力がどのような形で現れてきたのか、その中でイエスが身をもって証ししたことは何であったのか、そして十字架上での死から3日目に復活した事実──キリスト教は、イエスの受難だけではあり得なかったこと、復活があってこそイエスの死が意味を持ち、今日まで人々に受け継がれてきた宗教となったという事実──を知るために、ぜひとも新約聖書を紐解き、イエスの死と復活の意味を確認してもらいたい。

この映画は、「最後の晩餐」が行われた夜、ゲッセマネで祈りを捧げるシーンから、翌日の十字架上の死、そして復活までが描かれており、誰にでも結末がわかりきったストーリーである。
カトリック教会では、イエスがエルサレムに入城した日(枝の主日)からイースター(復活祭:春分の日の後の最初の満月の次の日曜日)までの一週間を「聖週間」と呼んでいるが、映画で描かれている事実は、この典礼上の聖木曜日(最後の晩餐、ゲッセマネでの祈り)から翌聖金曜日(イエスが十字架上で死を遂げた日)までに当たる。
この期間にイエスの受難を思い起こすことで、3日目の「主の復活」を心より祝うことができるのではないだろうか(映画では復活後が描かれていないため、イエス・キリストの復活の意味を理解するのは難しいのかもしれないが)。


事実の映像化という観点では、例えば劇中のイエスは十字型に組まれた十字架を背負って歩く姿が描かれているが、イエスが背負った十字架は十字の横に渡る部分のみで、磔にされるときに初めて十字型に組まれたというのが定説であり、厳密に言えば事実でない部分も含まれる(イエスと共に磔刑に処せられた罪人は、劇中でも横木だけを担いでいる)。
このことを捉えて揶揄する声も聞かれるが、この辺りは「映画」としての視覚的効果や、十字架を背負わされた重い意味合いとして汲めばよいのではないか(批判するのはナンセンス)と個人的には思っている。
誘惑の象徴として描かれるサタンの存在、また裏切り者として知られるイスカリオテのユダの幻影には、バロック美術の巨匠カラヴァッジョの絵画を想起させられ、映像として十分な視覚的効果であるように感じる。
首を吊って罪を報いるユダの映像も、ユダの心情とは裏腹に悲しいぐらいに美しい草原が舞台とされているが、ここにも視覚的なメッセージが込められているように感じられた。

なお、これまでにもイエス・キリストやその周囲の人たちを主題とした数々の映画があるが、個人的にはこのイエス(ジム・カヴィーゼル)や母マリア(マヤ・モルゲンステルン)は圧巻であったと思う。

Saturday, May 1, 2004

Gold fish



撮影のため名古屋へ。
宿泊先のホテルの金魚。